私が中学1年生ときの元日早朝、父が突然他界しました。「人はいつ死ぬか分からない。」この世の厳しさに気づかされました。母子家庭となった我が家は、親戚が遊びにくることもなくなり、3人の家族は孤立しました。四十を過ぎた母の仕事探しは簡単ではありませんでした。正直、「人生終わった・・・」と思いました。父を失った悲しみと将来への絶望。「中学を卒業したら、働かなければならない。ひ弱な自分に何ができるのだろうか。」友達が、家族旅行やお年玉の話を始めると、そっと教室の外に出ていく私。いつの間にか、友達にも心を開けなくなっている自分がいました。
しかし、近所に住む遠縁の親戚や学校の先生などに支えられ、どうにか高校に進学することができました。就職を覚悟していましたが、母の頑張りと決断により大学へも進学できることになりました。「将来に希望の持てない暮らしの中で、自分は奇跡的に進学できる。でも、ひとり親家庭から子どもを大学に行かせるためには、秋田の経済がもっと強くならなければならない。」と思い、理工学部の中では異色の工業経営学科に入学しました。
卒業後、いざ秋田へ帰ろうとすると、バブルが弾けて就職難になりました。民間企業への就職は無理でした。考えた挙句、出した答えは秋田県庁に入るというものでした。県庁なら、秋田の産業全般の振興ができる。そう考え、慣れない法律などを学ぶため、1日16時間の猛勉強をしました。そして、秋田県庁へ合格し、秋田に帰ってくることができました。しかし、「自分はたまたま試験に受かったから秋田に戻ってこられた。でも、他人を蹴落として競争に勝ったに過ぎない。自分のせいで秋田に戻れなかった人、秋田から出ていった人がいるはずだ。」と気づきました。一度県外に出て行っても、成長して戻ってこられるよう、若者が働ける環境づくりが大切だと思いました。
県庁入庁後、残念ながら、私は産業振興や雇用・労働関連の業務に就くことはありませんでした。そして、労働環境はブラックそのものでした。日付が変わるまで働き、朝は先輩よりも早く職場に出ていました。土日も朝から晩まで働き、大好きな温泉に入るヒマもありません。海にも山にも遊びに行けず、野球もバレーボールもできません。横浜から嫁いできて、右も左も分からない、友達もいない妻をほったらかしです。秋田にいるのか東京にいるのか、どこに住んでいるのか分からないような生活が続き、2度も身体を壊して入院しました。同僚が心配してくれるのかといえば、「みんなに迷惑をかけた」ということになります。全くそのとおりで申し訳ないと思いました。しかし、「ちっとも楽しめない生活を続けていって、県民が幸せになるような仕事ができるのだろうか」とも思いました。県庁では、野村総合研究所や秋田大学、関東自動車工業(現トヨタ東日本)への派遣など、多くの貴重な経験をさせてもらいました。本当に感謝しています。しかし、このまま一職員として無事に定年を迎え、県庁を去ろうというときに、自分は後悔するのではないかという思いが込み上げてきました。「自分はどうにか勤め上げたが、肝心の県民の暮らしが良くなっていない。自分の職業人生はなんだったのだろうか。」そう考えている自分の姿が浮かんできました。
多くの経験をさせていただき、秋田市議会議員になりました。しかし、一人ひとりの議員には大きな力はありません。また、地域を変えていくのは議員の力だけではありません。だから、あなたと私の力を合わせ、住みよいまちづくりを共に考え、その実現に向けて一緒に歩んでいきたいのです。あなたの力を貸していただけないでしょうか。私たちの手で住みよいまち、暮らしに喜びを感じられるまちにしていきましょう。